ものを観る目について
今の住処に引っ越してからもう4年近く経つのだが、どうにも引きこもりが過ぎるので、最近は無理やり外に出るようにしている。
今年の目標は「外に出る」である。
ただしやはり用がないと厳しいものがあるので、よく分からないが美術館なんぞに行ったりしている。ただやっぱりよく分からないし、そもそも何かを見て「感動」したことが無い私としては感性は完全に捨て去って理で見ようと試みている。
私は模型作りを趣味にしているのだが、こういうものを作る趣味を持つと必然他人の作品を見る楽しみも出てくる。
特に作っていなかった頃は「なんか格好いい」だったところが、自分で作成し色を塗る上での試行錯誤を繰り返すうちに「ここ小物どうやったんだ?」とか「ここの影にこんな色使うのか」とか「顔の塗装すごい」とか観る点が具体的になってくる。
見る観点が「感性」から「技巧」に移っていく。
そうなってからというもの、漫然と見ていたときは一つ一つの鑑賞時間は短かったのだが、くみ取れる情報量が増えていったために一つのモデル辺りの鑑賞時間が自然と伸びていった。同じ作品でも楽しめる時間が増えたので利益/体は増えて良いことこの上ない。
だがそのような日々を過ごしている中、ある日実家に帰ったときにふとかつて通っていた模型店に立ち寄ったのだが、愕然としてしまった。
かつて通っていた時にあんなに見惚れていたミラーケースのサザビーが驚くほど色あせて見えたのだ。
当時は「渋くてカッコいい。塗装とかできるとこんなカッコいいものが作れるんだ」とあこがれを抱いていたのに、今は「黒立ち上げがあざとい」「ここは無理して塗らずにデカールを使うべき」「シャフトの銀があからさま過ぎる」と次々と見たくもない粗が見えてしまった。
レベルの高い作品を見ることで物の良し悪しが少しわかったといえばそれまでであるが、それでもかつて憧れていたものが大したことが無いと見えてしまうのはあまり気持ちの良いものではない。それに私が指摘したのは作品の部分部分だけに終始している。
全体としての評価が抜け落ちている。
もしかしたら悪いのは作品ではなく、私の鑑賞眼かもしれない。ただ単に小手先しか見えなくなっていたのかもしれない。
ただこれは作成者にありがちな落とし穴ではないだろうか。
モデラーとして他作品を鑑賞する場合どうしても「自分だったらどう作る」という視点になってしまう。見る過程でどう手を動かすかが頭をよぎってしまう。
そうなると、「ここはかなわない」「ここは自分の方がうまい」という見方になってしまう。
そうなると、全体を観る目がどうしても損なわれがちになってしまう。
あまりよくないモノの見方だとこのように自覚してはいるが、もともとあまり「感性」が欠いた自分のようなものが、モノを見るときこのような見方をすると楽しみやすいという点も確かにあるので、結局いまだにずるずるとこのような見方をしてしまっているわけで。
そしてそれは美術館での絵画鑑賞にもつながる。
自分で絵は描かないので技巧面は分からないが、
「油絵具のタッチがかなり濃いけどこれで激しさを出そうとしているのかな?」
「波しぶきの上がり方からこれは横並びではなくて、本当は裏表の構図を並べているのかな?」
「ほんわかしたタッチで銃だけシャープに描いているからギャップ効果を狙っているのかな?」
などと小賢しいモノの見方をしているのである。
多分作者的には効果は確かに狙ったかもだが、きっともっと純粋に見てほしいはずなのだ。
私は鑑賞者としてはおそらく、作者の要望には応えられていない。
だが、感性が欠けた自分のような人間でもこの方法だとそれなりに絵を楽しめるのだ。
悪いと思っていながら、やめられない。
まるで何かの中毒患者のようだ。